徳永 宗也(とくなが そうや)は、近世初頭における筑前国博多の惣司・町司・代官・「町の支配人」。別名は次郎左衛門。
豊臣政権期における動向は詳しくないが、黒田長政の筑前入封後は博多の町政を担当し、博多町奉行職設置まで続いたと考えられる。
博多南縁の堀(房州堀)のうち、瓦町口より辻堂口までの構築(年不詳)、博多東縁の川土手普請(年不詳)、博多本願寺門徒の扱い(慶長7年(1602年))、博多商人の渡航朱印状獲得(慶長12年(1607年))、博多の公役・五人組制度(慶長13年(1608年))などについて長政と協議あるいは長政の指示を受けるなど、博多の町政に深くかかわったことが知られる。しかし、慶長17年(1612年)以降、博多の町政担当者として小堀久左衛門の名が記録に見えるようになり、代わりに徳永宗也の名は歴史上から姿を消す。
脚注
参考文献
- 檜垣元吉監修『石城志』(九州公論社、1977年)後半 pp.135-37,139,188。
- 川添昭二ほか校訂『新訂 黒田家譜』第1巻(文献出版,1983年)pp.472,497。
- 『長政公御入国より二百年町家由緒記』(奥付なし)pp.64-5。
- 福岡県地域史研究所編『福岡県史』近代史料編 福岡県地理全誌(一)(福岡県,1988年)p.271-72。
- 武野要子『博多商人とその時代』(葦書房,1990年)pp.22,118-19。




